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報 告
初回となる今回は、スタッフの皆さんに、南地域寺院十九か寺への参加のよびかけを積極的にしていただき、その結果、ご住職ばかりではなく、若院や坊守さん、准坊守さんのご参加もかなりあって、三十七名のご参加でありました。
開会式は、須磨第四組組長さんにご挨拶の言葉をいただき、開会。ついで、ご講師であられる中川皓三郎先生に、テキストから「第1章 人と生まれて」というところの講義を頂きました。七十年代の学生運動、全共闘運動が大学のありようを問うた。私は、高橋和巳(京大)と滝沢克己(九州大)のふたりの先生が、学生の問いに真剣に答えたと思う。親鸞聖人の教えに関心をもっていた滝沢克己は、キリスト教の人であるが、「なぜ学ぶのか? なぜ学ばなければならないのか?」という問いに、「アルピニストは、なぜ山に登るのか?——山がそこにあるから、と答える。同様に、なぜ人は学ぶのか?——人としてここに生きているから。人としてここに置かれているから。事実存在する真理が刻々と私を呼ぶからだ」と答えた。刻々に問うてくるものがある。信国先生は、「そういう、阿弥陀なるいのちが、『そういう生きざまをしていてよいのか?』と問う。汝は無量寿といういのちを生きる者なのだ」と言われた。
現代は生活のスピードがあまりにも速い。問いに踏みとどまれない。問いを消してしまう。自分のうちに起こった問いに耳を澄ませよう。「そんなことを考えていたら生きていけない」という。一人の人間として生きていることを問われる者として生きている。
近代・現代を生きる者として、判断できるものが我々人間にはあると考える。理性というものが信頼できる判断根拠であり、我々の工夫しだいで幸せになれるんだと。近代以後、私たちには何が真理なのかを見分ける能力があるのだということを信じて生きてきた。しかしながら、そのことが大きな問題をもっているということ、人生は、いのちは、自分の思い通りにはならないのだということで、いきづまりを知らされてきた。そのいきづまり、思い通りにならない苦しみ。それこそが、教えに出遇うチャンスである。人間は教えに出遇わなければならない。
講師の中川皓三郎先生は、更にご自分のことをこういうふうに語られた。人は生きている限り、苦悩をまぬがれえない。必ず苦悩する。自我、私というものを前提としている限りは、必ず行きづまる。これをまぬがれえない。私は大学を卒業する直前の2月、友人の紹介で、ある先生にお会いした。「こいつ悩んでおるんや」と。すると、その先生は、今まで聞いたことがない不思議なことを言われた。「悩むということは非常にいいことだ。飛び上がる前には、いったん沈まなければならない。そして飛ぶ。ジャンピングボードだ。一緒に親鸞聖人の勉強をしましょう」と。理科系の人間であった私は、その時人生ではじめて親鸞の名前を聞いた。その先生は、出雲路暁寂(金沢大学教授)という先生で、「私は暁烏敏師に出遇いました。私の人生はそれがすべてです」という先生であった。
分かるときが来たら必ず分かるのだから、怠らず学んでほしい。本当にいきづまることにおいて、「一緒に勉強しましょう」と言ってくれる人がいるのかいないのか。行きづまることにおいて教えを本当に聞くことができるようになる。分かるときがくれば分かる。苦しみをまぬがれえる者はいない。教えに出遇うチャンスだということを覚えていてほしい。
このように述べられて、参加者に深い感銘を与えてくださいました。

感想や反省点
今回は初回でしたので、参加者の皆さんは、時間で会場へ来られてから、受付で初めて『法語から読む宗祖親鸞聖人』のテキストを手にされ、目を通す時間があまりなかった方が多かったかも知れません。先生には、講義を中心にお願いをしておりまして、一緒にテキストを声に出して読むことはされませんでしたので、どうかご自坊で各自読んで下さるようお願いしたく思います。このテキストは、かなり考えて読むことを期待しているような内容ですので、ことあるごとに、問題点を再確認してください。
それと、以前から出ている宮城先生の『宗祖聖人——親鸞——生涯とその教え』(上)(下)[本山出版部発行]も、大変わかりやすく優れた本であると思いますので、併読されることを、参加者の方々にお勧めしたいと思います。
報告者 巌城孝憲
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