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報告
昨年と一昨年に引き続き、楠先生よりテキスト『宗祖親鸞聖人』にそって、第7章 ~ 第9章までのお話を頂きました。
テキストの内容に入る前に御遠忌の意義を 親鸞聖人が念仏の教えを明らかにされたその御恩を報ずる法要であるとおさえられました。また、私たち一人一人が宗祖との出会いを確かめる御仏事であり、私たちが共に御遠忌をお迎えし、法要をお勤めすることによって、念仏の教えに遇うという開かれた関係が、僧伽であると教えて頂きました。
テキスト第7章「民衆にかえる」では、「人に依らず、法に依れ」という教えから、親鸞聖人が法然上人という人格に依るのではなく、法然上人が説かれた法に依られているということが印象深かったです。このことは、私たちが常に人に依存してしまう危険性を明らかにして頂きました。また、逆に依存することを恐れて、「よきひと」との出会いを避けてしまうという問題も同時に指摘されました。その事から親鸞聖人は、越後での厳しい生活において、そのただ中に生きる人々と出会うことができました。そして、教えに立つことから出会いの場をいただき、越後の生活を歩まれたことを「親鸞一人がためなり」という法語を通して、お話くださいました。
第8章「大悲に生きる」では、親鸞聖人が京都に戻らず、関東を目指された理由について、越後の人々との出会いを通して自らの使命となった「教えを伝えていくこと」であるとおさえられました。 
「愚者」について、宮城顗先生の「愚かさとは、答えをもっているということです。」を引用されながら、自分の答えを振り回して自分を驕り、他者を見下す心について述べられました。次に「正定聚」について、正しく仏に成るに定まった聚(仲間)とおさえられ、助かる私たちと助ける仏とが、共に助かる道に立つことが大切であります。親鸞聖人が関東の地で浄土三部経を千部読誦することを捨てられたことを通して、教えて頂きました。「悪人正機」について、悪人こそ本願の正機であることをおさえられました。排除、どんなことをしても迷惑かけずにはおられない存在であること、親鸞聖人はそのことの自覚を痛みとして生きている、越後や関東の人々に出会い、問われ続けられました。その中から「念仏者は無碍の一道なり」(『歎異抄』第7章)を引用されながら、現代、懸命に生きながらも孤独で拠り所を見出すことができず、体一つ、仕事一つ失敗すると明日はないという生活をしている方々にまさに無碍の一道は、私たちの思いはからいが一向に邪魔にならないはたらき(念仏)であると教えて頂きました。
最後に「願生浄土」について、1)浄土に生まれようと願う、2)願に生きる、願いに生きる、3)浄土を願って生きること、すべてが一つであるとおさえられました。そして、信國淳先生から頂いた「わかっても、わからなくていいから、お念仏申しなさい。そして、お念仏に育てられなさい。」という言葉と、「弥陀の名号となえつつ信心まことにうるひとは…」という親鸞聖人のご和讃を引用されながら、念仏によって信が育てられること、そして念仏を称える場としてお内仏があり、その願いに目覚めて仏の世界を求めていくところに、願生浄土の世界があると教えて頂きました。親鸞聖人90年の生涯に学ぶことを通して私たちに伝えられてきたことを確かめさせて頂く場が、750回御遠忌であるとまとめられて、今回の講演を終えられました。
 
感想・反省
年一度の短い時間の中で楠先生には無理をお願いして、テキスト『宗祖親鸞聖人』をもとに第1章から第9章にわたり、お話を頂きました。天候にも恵まれ、宣伝方法も再度確認を行い、平日に行ったこともあってか、多くの方々の参加がありました。御遠忌のお待ち受け事業であるためか私自身、緊張感のある公開講演会であったと思います。講演の中で出てきた「僧伽」の意義を再確認させていただいたことと同時に参加された皆さんとの関係を通して、今まで以上に私も御遠忌に主体的に参加する者の一人であることを実感することができました。
報告者 ・ 巖城 孝信
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